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ジョーのあした完成発表記者会見

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※会見の様子(画像多数) ⇒ http://natalie.mu/eiga/news/172812


この会見の中で、お偉いさんが語ってる「J:COM」ってのが
日本映画専門チャンネルに引き続き、また意味分からんのだが・・・

とりあえず、地元でいつ公開になっても良いように
特典付き前売り券だけでも買っておこうかなと思ってたんだけど

昨日?オープンした、公式サイトの【上映劇場】で確認すると
大阪・兵庫・東京・神奈川・新潟・京都・岡山・福岡しか載ってない。

え? 日本ってこんなに狭かったっけ!?
いや、全国の映画館でやるんじゃないの!?

※映画館で見れない人用に、日本映画専門チャンネルとかJ:comがあるってこと???

ひょっとして俺・・・この映画、永久に見れないのかも?




※追加※ 25日(月) 長野・石川が増えてました。
※追加※ 26日(火) 愛知
※追加※ 29日(金) 滋賀・奈良・和歌山

※再追加※ 2月3日 福井
※再追加※ 2月8日 大分
※再追加※ 2月10日 広島・佐賀
※再追加※ 2月12日 北海道
※再追加※ 2月24日 静岡
※再追加※ 2月29日 群馬・埼玉・千葉

※再々追加※ 3月1日 青森・宮城・山形
※再々追加※ 3月5日 熊本
※再々追加※ 3月10日 沖縄







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※今朝(19日)の日刊スポーツ






これはこれで、なぜか謝罪会見みたいになってるね。

つーか、辰ちゃん「暴れん坊将軍」知らないなんて
帰ってから、るみ夫人に馬乗りで怒られたんじゃ・・・?


初共演2連発

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※25日(月)日刊スポーツ


率直に、中日ファンとして嬉しかった。
暗くて地味な中日からでも、こういう全国区な場に呼ばれるような
元選手が、久方ぶりに出て良かったなと。

でも山本昌って、ここ1~2年で(スキーの葛西さんのお陰か?)
急に「レジェンド」などとモテはやされるようになった感じだし

僕の中では、中日の左のエースと言えば
記録的には全然劣るけど、やっぱり今中なんだよなぁ。


ちなみに、山本昌は辰吉さんの薬師寺戦(94年)を生観戦したって言ってたけど
他にも、元中日では山崎・矢野・遠藤なんかもレインボーホールに来てたはず。

ま、遠藤っつっても誰も知らないでしょうけど・・・。




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※今朝(29日)の日刊スポーツ


競馬には全く関心がないので
こっちの共演はあんまりピンときてないんだけど・・・

騎手って、小柄で軽いほうが何かとお徳で
みんなミニマム級くらい???ってイメージだったんだが

武さんって、ヒョロっとしてるわりに意外とデカイです?
それより、むしろ辰ちゃんのほうが年々縮んでるのか!?




とにもかくにも、どっちの対談も日本映画専門チャンネルで
2月11日(木)の午後9時から放送予定とのこと。

※追加※ http://natalie.mu/eiga/news/174753

スペシャルインタビュー

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辰吉丈一郎スペシャルインタビュー



スゲー立派な作りではあるものの
画像と交錯してて、ちょっと読みづらいんだけど・・・
最後のほうの犬と一緒の写真は、なんか和むね。



あと、映画の公式サイトにも
監督インタビューがあるので、まだ読んでない方は是非。

豊川さんのクダリで、布袋さんが出てきて
控え室血だるま事件???の話は面白かったよ。



もう1つ、コレは辰ちゃんは直接関わってないかもしれませんが

ツイッターによると「NHKスイッチインタビュー」ってのがあって
阪本順治監督と千原ジュニアさんが番組収録したらしいです。



でも、NHKスイッチインタビュー自体が初耳だったので
コレがいつ放送されるとかまでは把握できていないんだが

毎週土曜・午後10~11時にやってる番組っぽいけど

Eテレって何だろう・・・コレも別アンテナが必要なヤツかい!?

辰吉三代物語 ジョーの血統

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今、デイリースポーツの「人間再発掘シリーズ」で連載されており
今日の時点でROUND16?まであり、今後どこまで続くのかは定かではない。

なぜなら、コチラではデイリースポーツが売ってないから・・・。

よって、他人様のブログをコソコソのぞき見して一人で楽しんでるんですが
その中の、ROUND10「遺品の中から出てきた 父が書いた小学校への手紙」
の記事を、今日中に皆さんにもご紹介したいなぁと思いまして。



 私は最近、こんな事を思うのですが「駄目な子を探して来い」と言えば、大勢いるように思いますが、不思議な事に「取り得の無い子を探して来い」と言えば、とても難しいのではないかと思います。大人の好みで、あの子は駄目な子だと決められている子供が大勢いるのではないかと私は思います。
 今、非行が問題になっていますが、その子が悪いのではなく、大人たち親の責任です。自分はどうなのか、自分をよく知る事が必要ではないかと思います。が、私も自分がよくわかっていない人間の一人です。
 子供は面白いもので、この子はこれが短所だと思って見ていた事が、よく考えて見ていると、それがその子の長所である場合もあります。欠点が必ずしも欠点とは限りません。また、何か優れた才能のある人には、人の道に外れたような欠点を持っている人がいます。子供も欠点の多い子、大きな欠点のある子は、何か素晴らしい才能を持っているかもしれません。「道によって賢し」という言葉がありますが、子供でも最も関心を持っている事や何か一つの事をずっと続けている子は、その事に関しては大人以上の知識や能力を持っている子もいます。
 自分の好みで子供を見ないで、いろんな知識を持って子供を見てやってほしいものです。それで将来の方向付けをしてやれれば、尚良いのではないかと思います。(本人が見つけるのが一番良いのですが)
 この前うちの子が「僕はバカかなあ」と私に聞きました。私は「おー、バカじゃ」と言いました。「でも、お前はバカにはならないかもしれない。お前は今やっている事があるから。人間何も無い人、なんの努力もしない人が馬鹿になっていくんだ。」と言いました。
 何か一つの事を一生懸命している人は、自分のしている事から物事を考えたりするので、それから考える知識だけでも凄いもんだと言って聞かせました。うちの子は勉強の成績はビリから一番ですけど、それも又いいじゃないかと思っています。今のとこ、私にはとても素直な子です。これから先もそうだと思います。私は、子供が考えている事がほとんど分かります。子供は「どうして僕の考えている事や思っている事が分かるん?」と聞いた事があります。私は「お前の親だから」と答えました。子供は、自分をずっと見ていてくれる人がいれば、あまり変な方向には行かないように思います。






粂二さんが書かれたこの手紙の内容は
過去にテレビ番組でも紹介された事があるとは思うけど
改めて読み返してみて、特に印象的だったのが
「これから先もそうだと思います」という一文に
辰吉親子の強さと凄さを見た気がした。


今日、1月31日は父・粂二さんの命日です。


PATA倒れる

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※今朝(4日)の中日スポーツ

音楽には疎い僕だが、Xのアルバムだけは全部持ってる。
ま、全部と言っても(ART OF LIFE含め)5枚しか出してないんだけど。

来月には、20年ぶりにニューアルバムが発売予定で
秘かに楽しみにしてたんだが、コレも延期になりそうだとか。



集中治療室に入れられるって、かなりヤバかったんだろうなぁ。
でも現在は、なんとか小康ジョー態を保ってるという。

でもでも、一瞬「WEEK END」のPVが浮かんでしまったり・・・。


JAPANが付く前の元Xファンとして
YOSHIKIが言う通り、これ以ジョーの悲劇が起きないように祈りたい。


辰吉ファンとしても、もしPATAがいなければ
映画「BOXER JOE」のテーマソング「SHINE ON ME」も無かったわけで
気が気じゃないのだ。
  


辰ちゃんのイラスト

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本日・16日発売の、ドカント(フリーマガジン)3月号

⇒ http://www.fujisan.co.jp/product/1281692204/b/list/


何の雑誌かはイマイチ分からんけど、目次を見ると

40歳を越えた今でも世界チャンピオンを目指しボクシング一筋
自分に途中下車を許さない「辰吉イズム」に迫る

というインタビュー記事もあるらしい。


が、フリーマガジンだからか!?
価格が「0円」になってて・・・
あそこの買い物カゴに入れるだけで本当にタダで読めるのか???
僕にとっては、謎だらけというか
クリックする勇気の出ない(途中下車したくなる)
デジタル雑誌?のようです。


ちなみに、あの表紙のイラストを描いた方だけはハッキリ分かっていて
こちらの瀬川淳さんという方でございます。






※追加※ 18日(木)

ドカント(フリーマガジン)3月号の辰吉インタビューが
無料でアッサリ発見できましたので、コチラからどうぞ。

ドカント ⇒ http://www.dokant.com/backnumber/mens/162/







ついでに、映画関連で阪本監督と千原ジュニアさんが出る
SWITCHインタビュー達人達(たち)というNHKの番組を
自分は観れないにも関わらず、少し前の記事で紹介したんだけど

その放送日が、今週の20日(土)に決定したみたいで
尚且つ、サプライズで辰吉さん本人も登ジョーするらしいよ。

⇒ http://www4.nhk.or.jp/switch-int/x/2016-02-20/31/4800/2037104/


ジョーのあした辰吉丈一郎との20年オフィシャルブック

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【定価】 1000円(税込み)
【発売日】 2月25日か26日?
【サイズ】 B5判(112ページ)

辰吉丈一郎・阪本順治 映画での全発言を完全採録
さらに辰吉丈一郎・阪本順治監督に新規インタビュー
辰吉丈一郎 ボクシングを語る(映画本篇未収録インタビュー)
辰吉るみ(妻)が語る辰吉丈一郎
スタッフインタビュー 椎井友紀子・笠松則通・志満順一
寄稿 豊川悦司
etc.  

※発行元 ⇒ 
キネマ旬報社 
※予約受付中 ⇒ Amazon 

※販売開始(29日) ⇒ 楽天ブックス
※在庫切れ中 ⇒ YAHOOショッピング(検索)



もちろん直ちに(amazon以外で)買うつもりだけど
あのさぁ「映画での全発言を完全採録」って必要か!?
ちょっと余計なお世話っつ-か、軽い嫌がらせじゃないのか???

だって、コチラ地方では未だに映画の公開日が決まってないし
映画観るより先に、このオフィシャルブック読んじゃマズイだろ・・・

ジョーのシネマがキネマの本に邪魔される。


公開記念プレゼント

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※日映シネマガ ⇒ http://cinemaga.nihon-eiga.com/interviews/sp-10/


【A賞】 辰吉丈一郎・阪本順治監督サイン入りポスター(1名)
【B賞】 辰吉丈一郎サイン色紙(1名)
【C賞】 オフィシャルブック(5名)


プレゼントの応募はコチラから ※締切は3月31日(木)まで

⇒ https://krs.bz/nihon-eiga/m?f=435



僕は、A賞にするから
他のみんなは、BかCにしてくださいね・・・。

ま、こんなモン当たるほうが異ジョーでしょうから
ほぼ全員が残念賞にはなるんですが

個人的には、お二人の仲良さげなショートコントが見れたし
当たらなくても結構です(辰吉風)



THE GREATEST

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5日(日)日刊スポーツ






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6日(月)日刊スポーツ









※追加※ 13日(月)NHK「クローズアップ現代」


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モハメド・アリの真実と題された番組内で
辰吉さんが「ホン……マっ凄い人やから。ありえんぐらい凄い。」
などと、珍しく語気を強めて語っていた。
お決まりのサンダルで軽く「アリ・シャッフル」を披露するほどに。

辰吉三代物語【35】粂二に教わったもの取り戻す

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辰吉三代物語35」粂二に教わったもの取り戻す

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年02月14日10時00分
 【辰吉三代物語35】

 復活を果たした丈一郎は、勝利者インタビューで「僕みたいなもんを」と何度も口にした。「自分のわがままでボクシングをやってきた。ファンのためにやってきたわけじゃないのに、僕みたいなもんを応援してくれてありがとうございます」。そして、震える声で3人の名を挙げた。

 「西原先生、親友のグレート金山君、後援会長の小森さん。亡くなった3人に今日のことを伝えたいです」

 波瀾(はらん)万丈の道で支えになった人たちだ。元日本バンタム級王者、グレート金山(本名・李東春)はスパーリングパートナーとして知り合った。8歳年上。韓国出身で2度の世界挑戦経験があった。2人は「東春(ドンチュン)」「辰ちゃん」と呼び合い、兄弟のように仲がよかった。

 同級のライバルとしてスパーも遠慮なく打ち合った。帰りに晩飯を食べながら、技術的なアドバイスもしてくれた。網膜剥離を発症した時は本気で「家族のためにやめろ」と言ってくれた。

 薬師寺戦の後、米国で丈一郎が再起した直後の1995年9月に金山は亡くなった。後楽園ホールでの試合後に意識を失い、4日後だった。硬膜下血腫。32歳の若さで逝った。

 同年11月には最初のトレーナーだった西原健司が、翌年サラゴサとの初戦で敗れた後には「辰吉丈一郎を応援する会」会長として署名活動の音頭をとった小森好美が32歳でこの世を去った。あの6万人の署名がなければ、今自分はここに立てていただろうか。西原先生がいなければ、ドンチュンがいなければ、そんな思いが丈一郎の心に去来した。

 菅谷がこの試合に向けて心を砕いたのは、本来の姿を取り戻させることだった。薬師寺戦後から気になっていることがあった。敗れたにもかかわらずカリスマボクサーとなった浪速のジョーは自分のボクシングを「作品」と言ったことがあった。言葉のあやだったのかもしれないが、ずっと気になっていた。

 試合前、厳しい言葉で暗示をかけた。お前のボクシングは芸術品ではない-。「殺しにいくつもりでやらんと殺されるよ」「負けたらお前だけでなく家族も笑われる」

 粂二が教えたのは「ボクシングであってボクシングでない」もの。原点は泥くさいケンカのやり方だった。圧倒的不利が伝えられる中で丈一郎自身も見失いかけていたものを理解した。

 「今回はボクシングをするつもりはない。僕の原点に戻って戦う」と戦前に繰り返した。試合後。「勝とうと思わなかった。殺そうと思った」とさらりと言った。

 シリモンコン戦は、決して華麗な勝利ではなかった。しかし、粂二が教えたものが丈一郎のボクシングだ。大切な宝物を取り戻した結果の奇跡だった。

辰吉三代物語【36】失意の中、父・粂二との永遠の別れ

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辰吉三代物語36」失意の中、父・粂二との永遠の別れ

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年02月17日10時00分
 【辰吉三代物語36】

 プロ28戦の中で丈一郎が記憶にない試合がある。それが、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)との2戦だ。

 シリモンコンに勝って王座を奪回し、ソーサ(アルゼンチン)に判定勝ち、アヤラ(米国)に負傷判定でV2を達成した。指名試合をクリアし、ここから防衛回数を重ねていこうと辰吉陣営は勢いづいていた。V3戦は1998年12月29日に大阪市中央体育館で行われることが決まった。

 挑戦者は同級4位のウィラポン。ムエタイ100戦のキャリアを誇り、国際式ボクシングに転向後はわずか4戦目でWBA世界バンタム級王座を獲得した。表情を変えずに淡々とパンチを打ち込む30歳は「デスマスク」の異名を取っていた。

 2度の防衛は判定勝ちだった丈一郎。今度こそKOとファンも待ちわびた。しかし、悪夢のような結果が訪れた。サラゴサの左フックにもシリモンコンの右ストレートにも立ち続けた男が地をはったのだ。

 6回、左一撃で赤コーナーに吹っ飛ばされてダウン。立ち上がったが再びラッシュを浴び、後は時間の問題だった。突き上げられた左アッパーに体がけいれんした。レフェリーが割って入るその直前に相手の右がヒット。丈一郎の体はスローモーションのように腰から崩れ落ち、後頭部をキャンバスに打ち付けて大の字になった。

 プロ2戦目にタイミングを外して軽く倒れた時以来のダウン。自分の足で控室には戻ったが「何があった?倒されたん?」とうつろな表情で周りに問いかけた。報道陣には「もう一度やりたい。おのれ、という感じ」と努めて明るく振る舞ったが、この時はまだ自分の身に起きた現実をわかっていなかった。

 2年ぶりにベルトのない正月を迎えた。1999年1月。左目網膜の補強手術を受け、退院を目前に控えた同31日、中学時代の恩師、依田進吾から連絡があった。父、粂二が血を吐いて倒れて病院へ運ばれたという。依田は週に数回粂二の様子を見に行っていた。そこで倒れていたところを発見した。何度か血を吐いたような跡があった。

 粂二がテレビで最後に見た息子はキャンバスに大の字にされた姿だった。ウィラポンに敗れた後、丈一郎に「自分のケツは自分でふけ」と言っていた。

 「おやじはいろんな課題をオレにおしつけて逝った」。通夜の後、震える声で丈一郎は言った。人前では「泣かない」とるみと約束していた。火葬場で妻と2人の息子とともに粂二の遺骨を口にした。小さな骨つぼに入った粂二を抱きかかえた。無冠の息子は「父ちゃん、出世するけんな」と言った。16歳。岡山を出発する時と同じせりふだった。

辰吉三代物語【37】オレに関わる人はみんな死んでいく

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辰吉三代物語37」オレに関わる人はみんな死んでいく

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年02月21日10時00分
 【辰吉三代物語37】

 丈一郎が16歳で大阪へ出てから粂二は抜け殻のようになってしまった。息子の食事に手抜きはなかったのに、一人ではあまり食事もとらなくなった。病弱だった体はさらに弱っていった。裏を返せば、それほど全身全霊を注いだ子育てだった。

 丈一郎の中学時代の恩師で粂二の最期をみとった依田は「たばこと酒と缶コーヒーが食事代わりになってしまった。やせてどんどん病気は進行する。僕が記憶しているだけでも4度は入院させた」と振り返る。依田は話し相手になりながら、食事を作ったり弁当を運んだりした。

 粂二の最後は力尽きるようだった。依田がいつもどおりに訪ねていくと、寝床のそばにある新聞紙の上に吐血していた。腹がちょっと痛いと言ったが、依田が救急車を呼ぼうとすると「ええから、大丈夫じゃ」と制した。「いや、ダメだ」と言う依田の目の前で粂二は意識を失った。

 体育教師の依田が心臓マッサージを施し、2度ほど息を吹き返した。しかし、救急車が到着した時には遅かった。死因は出血性胃かいよう。気管支につまった血痰(たん)は、夜な夜な血を吐いていたことの証しだった。どれほど痛みがあっただろう。その死生観を表すように自然に運命を受け入れた。

 丈一郎が父について語ったことがある。「おやじの何がすごいかと言えば精神力。生きることへの精神力」。息子に強く生きるすべをたたき込んだ。その父が自身の生に執着しなかったのは、もう息子に教えることがなくなったからか。それとも、るみや子どもたち、周りで支えてくれる人たちが大勢いる安心感だったのか。

 ただ、粂二を失った丈一郎が平静でいられるわけがなかった。しかも、1カ月後の3月6日、元トレーナーの大久保淳一が心不全で急逝。44歳だった。

 大久保の引退勧告を丈一郎が拒否した後、2年ほどは会っていなかった。しかし、大久保はその後も関係者を通じて常に丈一郎の様子を聞いていた。間接的にアドバイスを送ろうとしたこともある。丈一郎のボクシングの深部まで理解できる存在だったことに変わりはなかった。その死を受けて丈一郎の心に浮かぶのは一心同体で世界へ駆け上った楽しい思い出ばかりだった。

 丈一郎はこの頃、身の回りの不幸が自分のせいではないかと思っていた。るみには「オレがボクシングしてるからかな?してなかったらあの人たちの運命は変わってたんかな」と何度も聞いた。「もうアカン。オレに関わる人はみんな死んでいく」と泣き出したこともある。

 その思いは菅谷も知っていた。「オレ(菅谷)も死ぬんじゃないかといつも心配していた」。耐え難い日々だった。

辰吉三代物語【38】『打倒ウィラポン』だけが支え

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辰吉三代物語38」『打倒ウィラポン』だけが支え

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年02月24日10時00分
 【辰吉三代物語38】

 粂二がいなくなり、るみは夫を一人で支える自信をなくしていた。現役続行にも反対した。

 トレーナーの菅谷もウィラポン戦での倒れ方に不安を覚えていた。後頭部を打ち付けるように倒れたあの試合では、倒れながらもまだ無意識に足を踏ん張るしぐさを見せていた。それが浪速のジョーの生きざまとわかっていても、ダメージの蓄積は明らかだ。「もうやめよう。命あっての物種だ」と諭した。

 しかし、四面楚歌(そか)の状況でも丈一郎はとりつかれたように「死んでもウィラポンに借りを返す」と言って聞かなかった。父の死の直前に大の字にされた屈辱は、悲しみとともにふくれあがっていくようだった。

 「打倒ウィラポン」の思いを奪えば壊れてしまうだろう。るみと菅谷は苦渋の決断をした。ウィラポンとの再戦に限り、しかもそれを最後にするという条件で再起を認めた。

 1999年8月29日。その試合は「Final Chapter(最終章)」と銘打たれた。場所は大阪ドーム。ただ、丈一郎の精神状態は変わらず、夜になると粂二を思い出して泣いた。

 この頃の菅谷の「練習メモ」は極端に字が乱れている。「こんな状態で試合をするのか?俺がこんなでどうする」「何をしたらいいか全くわからない」。心の声を吐き出すような言葉の数々がある。「やっぱり俺は試合をやりたくない。辰吉を無事に家族の元に戻すことが俺の仕事だろ!」。菅谷自身が追い込まれているのがわかる。

 試合に向けたキャンプは、恒例の和歌山・白浜ではなく菅谷の地元福井で行われた。大阪から白浜に行くには岡山へ帰る時と同じ道を通る必要がある。それを避けたかった。菅谷の家族がいる福井の自宅を拠点にしたのは、トレーニングより心のケアに重点を置いたためだった。

 キャンプは25キロの木製ハンマーでタイヤをたたくまき割り風トレーニングなど異例のものが多かった。菅谷は振り返る。「一瞬でも気持ちが楽になるように、今までと違うことをやらせようと思った。そうでないと練習にならなかった」。ミット打ちやロードワークでは途中で泣きだしてしまう。不安定な精神状態が続き、るみを福井に呼び寄せたこともあった。

 この頃の丈一郎は、粂二と同じことをしようとした。わざわざ鍋でご飯を炊き、寿希也と寿以輝には強い岡山弁で話しかけた。粂二が自分に言っていたような説教も繰り返した。

 父の死を受け入れられない日は続いた。このままリングに上がれるのか。菅谷のノートには「神様、おやじさん、辰吉を守ってやってください。お願いします」と書かれている。試合は近づいていた。

辰吉三代物語【39】ウィラポン再戦に惨敗

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辰吉三代物語39」ウィラポン再戦に惨敗

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年02月28日10時00分
 【辰吉三代物語39】

 それが挑戦者としての心意気だった。サラゴサとの初戦で敗れて以降、丈一郎が挑戦者として入場時にガウンを着たことはなかった。タオルを首に巻き裸でリングに上がった。

 しかし、その信念を1試合に限り変えることにした。父とともに戦うことを決めたのだ。白いガウンの背中に自分と息子2人の名前、そして粂二の写真とその横に「父ちゃん」と入れた。他人から見れば奇妙な衣装かもしれない。しかし、るみには「おやじと一緒にリングに上がっておやじと一緒にリングを降りる」と言った。これが唯一の方法だった。

 「最終章」と名付けられたリング。大阪ドームには一人の男のためだけに2万7千人が集結した。代名詞となった入場テーマ「死亡遊戯」が鳴り始める。相手を震え上がらせてきたブルース・リーの映画曲が、この時ばかりは悲しく聞こえた。

 そして、丈一郎は壮絶に散った。3回以降は立っているのが精いっぱいだった。ウィラポンの繰り出すパンチのほとんどをまともに受けながら、それでも前進し続けた。「もう行くな」「十分や」とファンが叫ぶ。子供の頃に粂二が言った。「殴られても倒れなければケンカに負けはないんじゃ」。教えを愚直に貫こうとするかのようだった。

 7回に相手の右ストレートが古傷だらけの左まぶたを切り裂いた。もう限界だ。これまで何度も丈一郎の試合をさばいてきたレフェリーのリチャード・スティールが一瞬試合を止めるのをちゅうちょしたのは、誰より近くで不屈の魂を見てきたからか。

 しかし、挑戦者の目から光が消えた瞬間、2人の間に割って入った。同時に会長の吉井清が赤いタオルを投げ込む。丈一郎は何かに吸い込まれるように後方へ倒れた。戦いながらすでに気を失っていたのかもしれない。それを最も知っていたのはウィラポンだった。予測していたかのように左手を伸ばして背中を抱き留めた。

 無残にたたきのめされ王者の手の中に落ちた。ぶざまなはずの挑戦者へ拍手は鳴りやまなかった。粂二の遺影を持ったるみはリングサイドで2人の息子といた。悔し泣きする寿希也の横で不思議なほど涙は出なかった。

 リング上で意識を取り戻した丈一郎は、再び父の写真が入った白いガウンに袖を通した。観客席に何度も何度も感謝してなお、リングを降りる様子はない。もう二度とここへは戻って来られない。未練を断ち切れないようだった。

 その姿に妻の心もポキンと折れた。「この人は、ボクシングが好きで好きでたまらないんや」。いまさらそう確信した。すると、るみは泣けて仕方がなかった。

辰吉三代物語【40】普通のおとっつあんになる

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辰吉三代物語40」普通のおとっつあんになる

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月03日10時00分
 【辰吉三代物語40】

 ウィラポンとの再戦後、丈一郎はまた記憶がなかった。ただ、今度は自らの置かれた立場はわかっていた。控室で言った。「女房、子供のことを考えると胸が痛い。これ以上自分を壊すのはよくない」と引退を示唆。翌日もジムで会見し「これ以上やっても悪あがきにしかならない。普通のおとっつあんになります」と言った。

 ファン数十人がかけつけていた。泣きじゃくる女性を「腐ったらアカンで」と逆に励ました。振り返れば「引退」とは一度も口にしなかった。ただ、一つの時代が終わったと誰もが思った。

 ウィラポン戦が「最終章」と銘打たれたのは、勝って引退と本人が決めていたからだ。家族もそう信じていた。敗れたリングサイド。「なんで止めるん?父ちゃんが勝つのに。絶対勝つのに…」と泣いてレフェリーに怒りをぶつけたのは7歳の寿希也だった。

 この日、家を出る直前に41度の高熱を出した。るみが座薬を入れたが一向に下がらない。「あんたは家におる?」と聞くと「行く」と言い張った。会場で関係者が抱いて行こうとすると「自分で歩く」と言う。「なんでオレが抱っこされなあかんのや。父ちゃんは今から戦うのに」と怒った。医務室で寝かそうとしても聞かなかった。試合が終わると不思議なことにすぐ熱は下がった。

 丈一郎の戦いの歴史は寿希也の戦いの歴史でもある。父が渡米するたび泣いて寂しがるお父ちゃん子がるみを驚かせたのは3歳の時。薬師寺戦後の再起戦、サンティヤナ(メキシコ)との試合を日本でテレビ観戦した。

 寿希也は画面に向かい「辰吉!倒せ!」と叫んでいた。「父ちゃん」と呼ばなかったのは、父が自分だけの存在ではないとすでに理解していたのだろう。

 5歳でサラゴサとの再戦を見た。血みどろの父がリング上で土下座した初戦の記憶は鮮明に残っていた。両者が出血するたびに体を震わせおびえた。リングサイドで耐え続けたが、途中で力尽きたように眠ってしまった。

 小さい頃は父へのヤジによく言い返した。「はよ倒せや!」と言われれば「今から倒すんや。見とけ!」。「辰吉、何やっとるんや」と言われれば「お前がやってみろ。父ちゃんに勝てるんか?」

 敗戦後にマスコミが大挙して押し寄せると小さい体で「父ちゃんをいじめるな」と守った。同級生から「お前の父ちゃんは弱い」とからかわれても、父や母には告げなかった。

 そんなけなげな戦いはもう終わるはずだった。しかし、丈一郎はあきらめていなかった。ウィラポン戦から1カ月後、一人でロードワークを開始した。再びリングに上がった父を、息子が叱責するのはまだ少し先になる。

辰吉三代物語【41】タイで再起も…恩師の死と国内ライセンス失効

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辰吉三代物語41」タイで再起も…恩師の死と国内ライセンス失効

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月07日10時00分
 【辰吉三代物語41】

 再起の思いを抱えていた丈一郎を会長の吉井清は許さなかった。大阪帝拳での練習を禁じ、第2の人生にジム経営を提案した。全面的に支援すると約束したが丈一郎は固辞。フィットネスクラブなどで一人練習を続けた。

 吉井は折れた。ウィラポン戦から3年4カ月後の2002年12月15日、セーン・ソー・プルンチット(タイ)との10回戦が決まった。元WBA世界フライ級王者で現役世界ランカーの危険な相手を丈一郎は6回TKOで退けた。

 しかし、翌年9月の復帰第2戦は左太もも筋断裂で全治3カ月の重傷を負った。判定勝ちの結果は残ったが、すべてが潮時に見えた。吉井は次男寛に会長職を譲り、丈一郎について「もうマッチメークはしない」と宣言。ボクシング界の重鎮の言葉は重い。他ジムを含め丈一郎に居場所はなくなった。

 37歳になれば基本的に国内ライセンスは失効する。元世界王者らには最終試合から5年の猶予があるが、そのリミットも迫っていた。そこで丈一郎は「勝負手」を打った。タイへ活路を求めたのだ。

 07年4月に練習のため渡タイ。名門チュワタナジムが拠点となったが、待遇は日本から武者修行で行く若いボクサーと同じだった。1泊2、3000円のホテルに泊まり、付き添いはいない。現地の日本人有志が手弁当でバックアップした。

 タイ式の朝夕2部練習。4月のバンコクは気温35度前後だが、ジムは一部に屋根がある以外は青空だ。サンドバッグはスコールにさらされ、ムエタイ選手のキックでボロボロだった。ジムには10歳くらいの少年も食べるために拳を磨いていた。

 その環境で週6日、1日4、5ラウンドのスパーを計80ラウンド。通常2カ月の量を3週間でこなした。「帰ったら先代(吉井)に試合をさせてほしいと話す。そのためにここに来た」と覚悟を語った。

 しかし、思いは届かなかった。帰国から2カ月後の07年7月17日、吉井はがんで死去した。享年74。

 厳しい人だった。丈一郎に世間というものを教え込んだ。ファイトマネーは数千万円になっても現金。目の前に札束を広げてバンテージ代数百円まで経費を引いてから手渡した。生活できればいいと金には無頓着な丈一郎にその価値を教えた。

 眼疾からの復帰も吉井がいなければ実現しなかっただろう。眼科の権威を引っ張り出して世論を動かし、自身が盾になった。

 死の間際までまな弟子を案じていた。入院中、るみの実家の喫茶店を訪れた。歩くのもままならない状態だったが、心残りだったのか。「ジム経営の話が途中だった。すまない」と謝った。

 告別式で「父のような人だった」と丈一郎は涙をこらえた。国内ライセンスは08年9月に完全失効した。

辰吉三代物語【42】負けて謝る父に寿希也が激怒「アホ!何で謝るねん」

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辰吉三代物語42」負けて謝る父に寿希也が激怒「アホ!何で謝るねん」

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月10日10時00分
 【辰吉三代物語42】

 2008年10月26日。丈一郎はバンコクでリングに立った。日本から付き添ったのはるみの兄、徳丸俊逸らでジム関係者は帯同しなかった。トレーナーの菅谷浩之も復帰に反対し福井に帰っていた。

 唯一のボクシング関係者は元日本ランカーでアマチュアジムを経営する戎岡彰。現役時代から丈一郎の弟分だった戎岡は「無事にリングから降ろすことだけを考える」と語った。そばにいる者、突き放した者、それぞれが丈一郎を思い、苦悩を抱えていた。

 日本での最後の試合から5年がたち、世界は動いていた。丈一郎から奪ったベルトを14度防衛したウィラポンはすでに王座を陥落。破ったのは長谷川穂積だ。ウィラポンを返り討ちにしてさらに防衛回数を重ね、絶対王者への道を歩んでいた。

 丈一郎を取り巻く環境も変わった。長男寿希也は中学を卒業。同時にプロを目指して大阪帝拳に本格的に入門した。小学生になった次男寿以輝も兄と一緒にジムに通い始めた。丈一郎が息子たちにボクシングを強いたことはなかったが、2人は幼少期からグローブを手にしてきた。父が長いトンネルにいる間に、息子たちも同じ道を歩み出していた。

 バンコクのラジャダムナン・スタジアムで開催された10回戦。38歳の丈一郎は20歳のタイランカー、パランチャイを左ボディーで倒して2回TKO勝ち。かすかな光が見えたかに思えた。

 しかし、09年3月8日の復帰第2戦は19歳の新鋭サーカイに7回TKO負け。3回にダウン、7回に左フックを浴びたところで陣営がタオルを投げ込んだ。体を支えられるように控え室に戻る屈辱の敗戦だった。

 わが道を突き進んだ末、異国で倒れた丈一郎に寿希也が怒りをぶつけたのがこの時だ。試合後、ファンに謝罪した丈一郎は寿希也にも電話で「ごめんな」と謝った。寿希也は言い放った。「父ちゃんのアホ!何で人に謝るねん。オレにも謝らんでええ。自分に謝れ!」。横で聞いていたるみが驚くほどのけんまくだった。

 「何も恥ずかしいことない。負けようと思ってリングに上がるやつなんておらへんねん」。それはまるで粂二の言葉のようだった。

 丈一郎はその時を振り返る。「我に返った。お前のためにタイに行って勝つなんて一言も言ってない。そんなん言われても迷惑やな。あの子も『辰吉』やったんや」

 この敗戦が現時点で丈一郎の最後のリングだ。健康問題を危惧する日本ボクシングコミッション(JBC)は、タイ側に試合を認めないように要望。WBCのスライマン会長も同様の要望を出し、タイとつながりが深いWBAにも歩調を合わせるように要請した。世界への道は断たれた。

辰吉三代物語【43】2人の子、親の気持ち

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辰吉三代物語43」2人の子、親の気持ち

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月14日10時00分
 【辰吉三代物語43】

 兄の寿希也と弟の寿以輝。丈一郎の2人の息子は父の性格をそれぞれ受け継いだようだ。るみは「寿希也は超マイペースで空気を読まないところが丈ちゃんにそっくり。寿以輝はやると決めたところは絶対にやるところが似てる」と言う。「ただ家族に何かあった時にはやっぱり長男」と寿希也が頼りだ。

 父の栄光も挫折もすべてリングサイドで見てきた寿希也は、高校に行かずにプロボクサーになる道を選んだ。しかし、プロテストを受けることはなかった。20歳を過ぎた頃、道をあきらめることを丈一郎に告げた。

 息子は泣いていた。理由は言わなかった。丈一郎は「本人にしかわからん」と振り返るが、こう解釈した。「何年かやって向いていないことがわかった。涙は自分への悔しさや歯がゆさやったと思う」

 いつしか家族を守る存在になった心優しい長男だ。父を落胆させたくない。それがボクシングを続けた理由ではなかったか。

 丈一郎は否定も肯定もしない。ただ「ボクシングは厳しい競技。絶対に自分のためにしかできない。オレのため、親のためなんて絶対にできない。誰かのためなんてボクシングへの侮辱」と言うだけだ。それを誰より理解していたのは寿希也だろう。

 兄と入れ替わるように、寿以輝もプロへの道を歩み始めた。父と同じ16歳で大阪帝拳に本格的に入門した。この時体重は85キロ。入門の条件として会長の吉井寛が半年で20キロの減量を命じたのは理由があった。

 「親孝行の延長でボクシングをするのではないと確認したかった。見えない呪縛がないかと」。寿以輝は条件をクリアし、2014年11月にプロテストに合格。昨年4月のデビュー戦から3連勝(2KO)を飾っている。

 父のボクサーとしての生きざまを間近で見てきた寿希也と違い、寿以輝にとって丈一郎は普通の「父ちゃん」でしかない。「辰吉ジュニア」という重圧も一見無縁に見える。好きなボクサーが「サラゴサ」だというのは、動画で見た壮絶な流血戦で父の相手が「かっこよかった」からだ。

 インターネットで自分の悪口を見つけても「母ちゃん、これ見て」とおもしろがってるみに見せに来る。KOできずに泣く負けん気の強さと同様に、人の評価を気にしない肝っ玉も父譲りだ。

 ジムに預けている限り、丈一郎は技術指導をほとんどしない。試合もただ静かにリング下から見上げている。その時、あらためて思うのは父粂二の気持ちだ。「自分の息子が殴り合いしてるのを見てうれしい親はおらん。ケガせんか、それだけ」。ボクサーとしてより親の気持ちが先に立つ。胸の痛みを粂二に重ね合わせると、もっと親孝行したかったと思う。

辰吉三代物語【44】辰吉やもん。辰吉やからやっとんねん

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辰吉三代物語44」辰吉やもん。辰吉やからやっとんねん

デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月17日10時00分
 【辰吉三代物語44】

 タイで“最後の試合”に臨んだのは09年3月8日だった。その後も丈一郎は一貫して「世界王者に返り咲く」とトレーニングを続けてきた。目指すのは「3度目の返り咲き」。4つめのベルトだ。

 大阪帝拳は「出入り禁止」のまま。大阪、兵庫の3つのジムを渡り歩く週6日のジムワークと、ロードワークが生活の基本だ。ウエートはいつでもバンタム級に落とせるように一日1食で58キロ前後をキープしている。

 タイでの試合以降、収入はない。今の生活は貯金が支え。「父ちゃんの教訓。お金はしんどい思いをしてもらう物。楽して稼いだ金はしょうもないことに使う」と安易な金もうけを嫌う。

 世界王者時代、多くのボクサーがトランクスにスポンサー名を入れる中で家族の名だけにこだわった。相次ぐCMオファーもほとんど受けず、カップ焼きそばのCMに3千万円のギャラを提示されてもあっさり断った。後にその焼きそばが1年分用意されていたと聞くと、そちらの方を悔しがった。

 20年以上前から同じ3LDKの賃貸マンションに住み、着る物はほとんどジャージー。「雨が降ってもぬれへん」と、バッグ代わりにスーパーの袋を愛用する。

 2011年にWBCは丈一郎に殿堂入りを打診。4つめの“ベルト”を贈ると伝えた。しかし、本人は「オレは現役。ベルトは試合に勝ってもらう物」と辞退した。ぜいたくや栄誉には、かたくななほど価値を見いださない。

 試合のメドがたたない中、ジム経営などの副業を持ってもバチは当たらないだろう。しかし「ボクシングがおろそかになる。練習を一生懸命することが(復帰への)アピールになる。それしかないと思っている」とるみは代弁する。スポンサーもタニマチも受け入れない。「それをすると辰吉じゃない」と妻は言う。

 「辰吉でいたい」「辰吉であるために」と丈一郎はよく口にする。2人の息子にも「辰吉の名に恥をかかすな」と教え込んだ。名の由来は「辰吉丸」という船だと父から聞いた。船はどこに向かうのか。「それは自分でわかってる。行く先は光ってるよ」と迷いはない。

 そんな丈一郎を笑う人がいる。父の戦う姿をほとんど見ずにプロボクサーになった寿以輝は、この世界の厳しさを知り始めた。それでも疑うことはない。「他人は関係ない。父ちゃんはベルトを獲ると思う。獲るまでやり続ける」

 ボクシングをやめた寿希也は会社員として働いている。弟のデビュー後、トレーナーの道を視野に入れた。父と弟。2人のボクサーを支えられるのは、長男の他にいないのかもしれない。

 「見たことのない景色が見たい」と丈一郎は言う。髪には白い物が交じり始めた。現役を続ける先には何が見えるのか。粂二は今、何と言うだろう。「まだやっとんのか。たいしたもんじゃのう」。そんなところか。丈一郎はこう返す。「だって辰吉やもん。辰吉やからやっとんねん」
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