辰吉三代物語41」タイで再起も…恩師の死と国内ライセンス失効
デイリースポーツ 関西ゆかりの人間物語2017年03月07日10時00分
【辰吉三代物語41】
再起の思いを抱えていた丈一郎を会長の吉井清は許さなかった。大阪帝拳での練習を禁じ、第2の人生にジム経営を提案した。全面的に支援すると約束したが丈一郎は固辞。フィットネスクラブなどで一人練習を続けた。
吉井は折れた。ウィラポン戦から3年4カ月後の2002年12月15日、セーン・ソー・プルンチット(タイ)との10回戦が決まった。元WBA世界フライ級王者で現役世界ランカーの危険な相手を丈一郎は6回TKOで退けた。
しかし、翌年9月の復帰第2戦は左太もも筋断裂で全治3カ月の重傷を負った。判定勝ちの結果は残ったが、すべてが潮時に見えた。吉井は次男寛に会長職を譲り、丈一郎について「もうマッチメークはしない」と宣言。ボクシング界の重鎮の言葉は重い。他ジムを含め丈一郎に居場所はなくなった。
37歳になれば基本的に国内ライセンスは失効する。元世界王者らには最終試合から5年の猶予があるが、そのリミットも迫っていた。そこで丈一郎は「勝負手」を打った。タイへ活路を求めたのだ。
07年4月に練習のため渡タイ。名門チュワタナジムが拠点となったが、待遇は日本から武者修行で行く若いボクサーと同じだった。1泊2、3000円のホテルに泊まり、付き添いはいない。現地の日本人有志が手弁当でバックアップした。
タイ式の朝夕2部練習。4月のバンコクは気温35度前後だが、ジムは一部に屋根がある以外は青空だ。サンドバッグはスコールにさらされ、ムエタイ選手のキックでボロボロだった。ジムには10歳くらいの少年も食べるために拳を磨いていた。
その環境で週6日、1日4、5ラウンドのスパーを計80ラウンド。通常2カ月の量を3週間でこなした。「帰ったら先代(吉井)に試合をさせてほしいと話す。そのためにここに来た」と覚悟を語った。
しかし、思いは届かなかった。帰国から2カ月後の07年7月17日、吉井はがんで死去した。享年74。
厳しい人だった。丈一郎に世間というものを教え込んだ。ファイトマネーは数千万円になっても現金。目の前に札束を広げてバンテージ代数百円まで経費を引いてから手渡した。生活できればいいと金には無頓着な丈一郎にその価値を教えた。
眼疾からの復帰も吉井がいなければ実現しなかっただろう。眼科の権威を引っ張り出して世論を動かし、自身が盾になった。
死の間際までまな弟子を案じていた。入院中、るみの実家の喫茶店を訪れた。歩くのもままならない状態だったが、心残りだったのか。「ジム経営の話が途中だった。すまない」と謝った。
告別式で「父のような人だった」と丈一郎は涙をこらえた。国内ライセンスは08年9月に完全失効した。
再起の思いを抱えていた丈一郎を会長の吉井清は許さなかった。大阪帝拳での練習を禁じ、第2の人生にジム経営を提案した。全面的に支援すると約束したが丈一郎は固辞。フィットネスクラブなどで一人練習を続けた。
吉井は折れた。ウィラポン戦から3年4カ月後の2002年12月15日、セーン・ソー・プルンチット(タイ)との10回戦が決まった。元WBA世界フライ級王者で現役世界ランカーの危険な相手を丈一郎は6回TKOで退けた。
しかし、翌年9月の復帰第2戦は左太もも筋断裂で全治3カ月の重傷を負った。判定勝ちの結果は残ったが、すべてが潮時に見えた。吉井は次男寛に会長職を譲り、丈一郎について「もうマッチメークはしない」と宣言。ボクシング界の重鎮の言葉は重い。他ジムを含め丈一郎に居場所はなくなった。
37歳になれば基本的に国内ライセンスは失効する。元世界王者らには最終試合から5年の猶予があるが、そのリミットも迫っていた。そこで丈一郎は「勝負手」を打った。タイへ活路を求めたのだ。
07年4月に練習のため渡タイ。名門チュワタナジムが拠点となったが、待遇は日本から武者修行で行く若いボクサーと同じだった。1泊2、3000円のホテルに泊まり、付き添いはいない。現地の日本人有志が手弁当でバックアップした。
タイ式の朝夕2部練習。4月のバンコクは気温35度前後だが、ジムは一部に屋根がある以外は青空だ。サンドバッグはスコールにさらされ、ムエタイ選手のキックでボロボロだった。ジムには10歳くらいの少年も食べるために拳を磨いていた。
その環境で週6日、1日4、5ラウンドのスパーを計80ラウンド。通常2カ月の量を3週間でこなした。「帰ったら先代(吉井)に試合をさせてほしいと話す。そのためにここに来た」と覚悟を語った。
しかし、思いは届かなかった。帰国から2カ月後の07年7月17日、吉井はがんで死去した。享年74。
厳しい人だった。丈一郎に世間というものを教え込んだ。ファイトマネーは数千万円になっても現金。目の前に札束を広げてバンテージ代数百円まで経費を引いてから手渡した。生活できればいいと金には無頓着な丈一郎にその価値を教えた。
眼疾からの復帰も吉井がいなければ実現しなかっただろう。眼科の権威を引っ張り出して世論を動かし、自身が盾になった。
死の間際までまな弟子を案じていた。入院中、るみの実家の喫茶店を訪れた。歩くのもままならない状態だったが、心残りだったのか。「ジム経営の話が途中だった。すまない」と謝った。
告別式で「父のような人だった」と丈一郎は涙をこらえた。国内ライセンスは08年9月に完全失効した。